2016-03-10 第190回国会 参議院 内閣委員会 第3号
国際観光局を一九三〇年につくったときも、実は内閣の中につくった方がいいんじゃないかという意見もあったというふうには資料には載っているんですけれども、そのぐらいやっぱり総合的なんですね。
国際観光局を一九三〇年につくったときも、実は内閣の中につくった方がいいんじゃないかという意見もあったというふうには資料には載っているんですけれども、そのぐらいやっぱり総合的なんですね。
昭和初期の頃から、通訳ガイドどうするんだという議論が国際観光局ができたときからあるわけで、地域限定でやったらいいじゃないかというのは、これはもう、そのとき、百年ぐらい前から続いている話なので、何となく想像は付くんですが、そうはいっても、やっぱり理由があって官房長官が熱心にされていると。
きのう資料をもらいまして、見ましたら、昭和五年、鉄道省に国際観光局というのがあった、鉄道省にあったんです。それが、時代が変わりまして、戦後、運輸省の大臣官房に観光部ができ、昭和三十年代に観光局に格上げになった。そして、これが四十三年に廃止になりまして、官房の観光部になったんですね。以来、ずっとこう来たんですけれども、局が部に格下げになったのが庁に格上げという例は今までにないと思うんですね。
運輸省の国際観光局ですか、ちょっとそちらの方でこれについてどういう御指導をしているか伺いたいのです。
一カ所に休日のときにたくさんの人が行って混雑するだけだということではなしに、もっと広範囲な観光地政策というものが当然なされていかなきゃなりませんが、それとこの国際観光政策との絡みももちろんあると思いますが、そこでやはり運輸省だけに余暇対策を任せるのではなしに、運輸省並びに国際観光局としても、労働省と全般的な総合的な観光政策の樹立について私は随時協議をしていかなきゃならない、そういう必要性が生じてきている
形容詞は非常に大きく書いているけれども、結局とどのつまりは国際観光局というようなものに縮まっているような感じがするのです。国際運輸となればやはり空の運輸、海、大体こういうものに集約されていくと思うのですが、その際に一体海と空をどのように立体的に考えていくのか、体系的に考えていくのか、これが運輸大臣の政策となって出てこなければならないと思うのですが、その辺はいかがなものでしょうか。
かつて国鉄時代には国際観光局というのがあって、新井堯爾、後の日本交通公社会長が初代局長として国際的にもデビューされた。これは非常に印象的な一幕を私も記憶によみがえらせております。自来、戦後におきまして、これが運輸省の観光課という課が観光部に伸び、さらに観光局として設置されて、三十年から国際的な観光事業を含んだ所管局が誕生したわけです。
○高野政府委員 観光事務で外に行っておられる方は、これは運輸省の国際観光局の身分ではなくて、観光協会という形の職員として行っておられる方が多いのではないかと私は考えております。
○山村国務大臣 新しい局並びに部の裁定にあたりましては、先般申し上げましたように、政府といたしまして緊急な、やむを得ないものにつきましての新しい局、部を認めた次第でございますが、そのうちの具体的例として国立公園の問題についてのお尋ねがございましたが、これは私もいろいろ御要望あるいはまた過去のいきさつ等を検討いたしてみますると、たまたま運輸省にございましたところの国際観光局と最初は同じ部の立場であったようでございます
昭和五年国際観光局として発足して、昭和十七年に局がなくなりまして、終戦後昭和二十一年に観光課として復活しまして、それが昭和二十四年に観光部になり、三十年観光局になって今日に至っております。それからまん中の欄は、昭和六年に財団法人国際観光協会ができまして、これが昭和十八年まで続いております。
昭和五年、時は濱口内閣、鉄道大臣は江木翼先生、大蔵大臣が井上準之助先生、そのときに鉄道省の外局としまして国際観光局が誕生したわけでございます。それが十七年まで続きまして、戦争がだんだん苛烈化してまいりましたので、いまさら観光でもあるまいというふうな考え方ではなかったかと思いますけれども、国際観光局がなくなっております。
運輸省の観光局につきましては、すでに皆様方御承知のところと思いますが、実は昭和五年に、当時の鉄道省の中に国際観光局ができまして、これは御承知の浜口緊縮内閣のときにできたのでありまして、当時外貨の獲得、見えざる貿易の振興といったような意味から強調されまして、緊縮時代ではありましたができたというような歴史を持っております。
名古屋観光ホテルは昭和九年九月に名古屋市、名古屋商工会議所その他名古屋の経済界の者が中心になりまして、名古屋にはそれまで純西洋式の外人向けのホテルがございませんでしたが、国際観光局のごあっせんによりまして、大蔵省の資金部の低利資金の融通を受けて設立いたしたのでございまして、戦前におきましてはその施設、食事、サービス等におきまして、非常に評判がよかったように記憶いたしておるのであります。
しかるにわが国におきましては、昭和五年鉄道省の外局として国際観光局が設置せられ、昭和十七年戦時体制に伴い同局は廃止せられたのでありますが、戦後、運輸省鉄道総局の観光課を経て運輸大臣官房に観光部が設置せられ、現在に至っておるのであります。
御承知の通り、戦前におきまするわが国の観光行政といいますものは非常にはなやかな面がありましたわけでありまして、初めにできましたのは昭和五年四月、当時鉄道省でございましたが、鉄道省の外局といたしまして国際観光局というものが初めて日本に設置をされたわけでございます。
しかるにわが国におきましては、昭和五年鉄道省の外局として国際観光局が設置せられ、昭和十七年戦時態勢に伴い同局は廃止せられたのでありますが、戦後運輸省鉄道総局の観光課を経て運輸大臣官房に観光部が設置せられ、現在に至っておるのであります。
ところが昭和四、五年でございましたか、観光事業熱が日本に広がりまして、観光事業というものは国策として大いにやろうじやないかという時の政府のお話等もございまして、当時鉄道省に国際観光局というものができまして、私そこにごやつかいになつておつたこともあるのでございますが、何分にも会員組織だけで、無手数料で外人客のお世話をするというふうでは、なかなか立つて行かない、十分なことができないというようなこと、それから
この第一ページ以下に書いてございますが、戦前には、昭和五年に鉄道省の外局として国際観光局というものが設立せられまして、外客誘致一般に関する業務を行つて参つたのでありますが、戦時中に廃止されまして、戦後、運輸省の中に観光課として復活を見ました。昭和二十四年六月の機構改革の際に、運輸省設置法によりまして、大臣官房に観光部というものができたのでございます。
先ほど申上げましたのは、先生のお話の通り、主として当初はレクリエーシヨンという見地から厚生省が担当いたし、或いは道路その他の見地から建設省がこれに関連を持ち、なお又運輸等に関係があるのでそれに国際観光局が運輸省にあるのであります。単に公衆衛生の見地のみから国立公園部において行政をいたしておるとは申上げておりません。
本委員会においては、国際観光事業の重要性にかんがみ、運輸省に国際観光局を設置すべきであるという主張のもとに、去る四月十九日全会一致をもつてこれに関して決議をいたしまして、政府に対し申入れを行い、次いで五月十六日運輸省設置法に対する修正意見を内閣委員会に申し入れたことは、御記憶になお新たなところであろうと存じます。